2005年01月25日

映画「息子のまなざし」に見る父性とは

職業訓練所で講師をする男は、偶然にも
自身のクラスの受講を志願する、かつて自分の息子を
殺した少年を迎え入れるが、徐々に不可解な執着を見せる。
その行動は、喪失したなにかを必死に探すかのようで
しかし、それは息子のことでは、恐らく、無い。

男は、少年から何を得ようとしたのだろうか。


劇中、カメラはこの男以外を捉えようとはしない。
彼の妻や彼の生徒、もちろん、少年も登場するが
それらは全て彼の感情を表す為に存在している。

これは自分の思い込みではないだろう。
主人公を演じるオリヴィエ・グルメ、この映画は
彼の起用を想定して作られたそうだ。
元々、体での表現を得意とするグルメが
ディープに役を演じ、更に、ストーリーが
役をじっくりを追い続けるという構造になっている。
内容が重いだけに、息苦しさを感じるかもしれない。


そうやって全身で表現されたもの。
父親にとって息子は、自身の一部だったということだと思う。

主人公は、息子を失ったことによって、正体のない
罪の意識を感じているのではないだろうか。
親類の勧めも断り、講師という仕事に留まり続けるのは
それを振り切るための無意識の模索であったのではないか。

だとしたら、彼の行動は、少年を知り、許そうとすることで
自分の、永遠に欠けたものに対する理由を作り出し、重圧から
逃れたいという思い悲痛な叫びと受け取れる。
この映画は、父親というものを、一つの人格ではなく
一人の人間が持つ感情で形成された個人として見た
あるはずなのに今までになかった映画かもしれない。








参考:
息子のまなざし
息子のまなざし
posted by にゃ at 22:50| Comment(3) | TrackBack(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

満員電車の際の表情講座

首都圏の電車の中でも、自分が通勤に使う田園都市線は
朝のラッシュの混み具合がひどい方ではないか。

あざみ野〜二子玉川間なんかは確実に身動きが取れない。
幸い、自分の降車駅である二子玉川は
長津田からそこまで右側は閉じたままなので
固いドアに窒息しそうになるのを必死に縮まりながら耐えている。


「満員電車の際の表情講座」


前に紹介した"殴るぞ"に出てくる本なんですが
その講座、是非受講してみたい。


自分、目線を宙に浮かすのが苦手で、例えば
バーで、目線に入る人の顔をどうしてもみてしまう。

「気があるのか?」
て思われるならまだいいけど、
敵対心を持たれてしまっては困る。

みんなどうしてるんだろう?ちょっと疑問。
posted by にゃ at 08:26| Comment(4) | TrackBack(0) | 私事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いくつも迷信はありますが

夜中に口笛を吹くと蛇が出る、とか

霊柩車を見たら親指を隠す、とか。


迷信は迷信であることに変わりないが、なんとなく
思い浮かんで、気にしてしまうことってある。


くしゃみ一回は良い噂
くしゃみ二回は悪い噂
くしゃみ三回は恋の噂


くしゃみをする度に、自分はこの迷信が思い浮かぶ。
二回くしゃみをした時なんか

「今のは間が開いてたから、1×2で良い噂二つね!」

などと一人言い聞かせたりして馬鹿馬鹿しいが
どんな時でもそう思うと少し和む。
posted by にゃ at 07:20| Comment(4) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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